自分じゃない誰かの顔をして生きてい(かない)

“何者でもない人の人生が、こんなに何でもあるんだな、っていうことを知りましたから。

おばあちゃんって自分がすごいなんて言わないし、わたしが面白がって聞いていても、話すほどのことなんてないけどねって感じで、普通に聞けばほとんどの話は出てきません。そういった経験も経て、本質的なものって、どうやってアピールしているかとか、言葉で表されてるものだけじゃないし、もしかしたらあまり周囲には分からないものなのかもしれないなと思いはじめて。

誰しも何者かになれるし、誰もそこまでではない、とでも表現すればいいのかな。もちろんすごい人はいるけれど、だからって取るに足りない人がいるという話でもない。何かになりたいと思いはじめると苦しくなるけれど、そんなの自分以外の誰かが決めた枠組みなんだって知って、そんな評価ならば気にしなくてもいいんじゃないかっていうところに落ち着きました。”

何者でもない人の人生が、こんなに何でもある。台所研究家・中村優さん(後編)

 

入谷佐知です。いまはタイのバンコクにいます。昨日、バンコク拠点を置いて世界を旅する中村優さんとそのパートナーであるミノルさんに会って、そしてこの記事をよんでじんわり感じ入るものがあったので引用しました。中村優さんは旅人であり編集者であり、台所研究家。『ばあちゃんの幸せレシピ』という、各地の台所を尋ねる料理エッセイを書かれています。

 

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ちょうど先日、そこにいる人が「おれはすごい」をお互いに打ちつけあうような場に出会った。「マウンティングし合う」とでも言ったらいいんだろうか。大学生時代はそういう場に足を運んでよく疲弊していたが、久しぶりにそんな様子に立ち会ってびっくりした。

でも、そういえばSNSではこんなやりとりに溢れているかもしれないと感じた。情報が簡単に手に入る。「◎◎すべき」「これはアウト」「これはOK」の裁きの言葉がタイムラインに流れてゆく。「自分の人生は自分が決めるものであるらしい」ということがわかるから今の状況は自分が招いているものなのだと認識する。SNSで簡単に他者と比較できるようになる。

そしてわたしたちは自分が「何者かにならなければいけない」と焦る。そして「何者でもない自分」「想像以上にかっこわるい自分」に直面して惨めさに打ちのめされる。

でも、その「何者かにならなければいけない」の尺度や評価基準って、誰かから受け取った尺度だったりする。わたしたちは、他人が持ってきた評価基準に焦って惨めになって打ちのめされるなら、そんな評価基準はひとまず放っておいてもいいんじゃないかな。自分じゃない誰かの顔をして生きていかなくて、大丈夫だ。

もちろん、人と人って影響されあって生きてゆくものだし、完全に他者の影響のないオリジナルな自分を見出すのって不可能だ。だから傾倒してるだれかがいていい。でも、そこまで惨めなったり一生懸命人を見下したりしなくていいよ、とわたしは思うのだ。

そんなふうに思っていたときに、先述の記事に出会った。「おれはすごい」を打ちつけるように表現していた方の顔を思い出した。「大丈夫だよ、そんなにしなくたって、私はあなたを見下したりしないし、裁いたりしないよ」と、思う。

わたしはこれまでたくさんの人に出会ってきて、インタビューしたり、ひとりひとりの話を聞いてきた。人間と人間は、残念ながら、完璧に理解しあうことはできないけれど、丁寧に聞くことはできると思っている。相手の見ている世界にとっぷり浸かることができると思っている。「取るに足らないひと」なんてひとりもいなかった。だれしも固有のバックグラウンドがあり、固有のつよみがあった。生きているなかで何者かにはかならずなっていく。中村さんのいうとおり、本当は取るに足らない人なんて一人も存在しない。